ヒサスエ・ノート

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317日(土)
 昨日の吉本隆明死去(87歳)につき読売「編集手帳」から―。
難解な評論を咀嚼できず、前掲の書物を除けば歯を腫らしながら巻なかばで降参を繰り返してきた身にとっては、近寄りがたい偉大な山岳のような人である。はなはだ頼りない愛読者ではあったが、それでも座右の銘にしてきた詩の一節がある。口舌の徒たるわが半生を省みては口ずさんだその2行を引き、今は亡き巨星への献花とする〈かれは紙のうえに書かれるものを恥ぢてのち/未来へ出(い)で立つ〉(『異数の世界へおりてゆく』より)
 
朝日「天声人語」は―。
 評論家の吉本隆明さんは16年前、伊豆の海で死にかけた。全共闘世代は祈る思いで「教祖」の容体を見守ったという。本紙記者は「オーバーにいえば、戦後日本思想界の大事件」と書いた。ならば今回は、掛け値なしの一大事となろうか▼時に戦後最大と称された思想家が、87歳で亡くなった。『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』。膨大な著作は、まず書名で読者の覚悟を試す。ご自身はしかし、下町の気っ風で大衆に寄り添う人情家だった▼思想の左右を超えて「きれいごとの正義」や「党派や組織の論理」にかみつき、あらゆる権威に市井の目で挑んだ。晩年の対談で自嘲している。「あの野郎、いつまでも人の悪口を平気で書いてやがる、なあんて思われているだろうし、ちっとも大家(たいか)にならない」▼若い頃、太宰治の戯曲を演じるにあたり、本人に挨拶(あいさつ)に行った。屋台で意気投合し、酔った太宰は「断りなんていらない。そんなもの勝手にやっちゃえばいいんだ」と。大家ぶらず、格式張らぬ生き方。これを我がものとし、誰にも気さくに接した。
 
毎日「余録」―。
▲仏文学者の鹿島茂さんは、60年代の吉本さんが当時の知識人の思想の不毛を暴けたのは落語のクマ公やハチ公の健全な常識を備えていたからだと述べている(「吉本隆明1968」平凡社新書)。「大衆の原像」とは小難しい思想用語だが、要はそういうことである▲戦争をあおった知識人が、一転して平和と民主主義を唱えた日本の戦後だった。それに憤然とした戦中派の吉本さんである。自らの権力のために人を偽善で操ろうとする知識人や党派への激しい言葉による批判は、当時青年期を迎えた団塊世代に大きな影響を与えた。
 
北海道新聞「卓上四季」―。
「死ねば死にきり、自然は水際立っている」という詩人の言葉が好きだと語っていた。宣長(のりなが)(本居(もとおり))のように、自分の墓の大きさ、植える樹木まで指定して残すのは狂気の沙汰―と。生前に出版されたエッセー集「遺書」にある▼奇をてらったタレント本風のタイトルも編集者の発案にまかせたそうだ。「信者」と呼ばれる熱烈な読者の書棚に収まる思想書も、娘で作家よしもとばななさんファンが手にする対談集も、同じ作者だ▼<大抵のことは許容できるほど曖昧なのがいい>。そうさらりと言い切れるのはこの人の「大きさ」なのだろう。吉本隆明(たかあき)さんが亡くなった▼東京・月島の船大工の三男として生まれた。米沢高等工業(山形大工学部)、東工大電気化学科に学び、敗戦は動員先の富山県カーバイド工場で迎えた。卒業後は化粧品工場などで働いた▼その異色の経歴について、詩人の故・清水昶(あきら)さんとの対談で、<風景としての強み。人間関係の錯綜(さくそう)に対する強み。感覚上の手触りを得た>と語っている。戦時中はむしろ積極的に戦争を支持していたが、<特攻隊のような健康さをみていると、どこか嘘(うそ)だと思った>とも▼原体験を踏まえ、戦後は立ち迷うことなく自ら思うところを語り続けた。関東大震災の翌年に生まれ、東日本大震災の翌年に87歳で去っていった思想家の人生に、なにか宿命的なものを感じる。
 
「ほぼ日」糸井重里氏の弁―。
 吉本さん。
 こういう日がくることは、ずっとわかっていました。ご本人といっしょに、そういう日のことについて話したことも、何度かありましたよね。「町内会で、小さいテントみたいなものを借りて、簡単にやってもらえたら、それがいちばんいい。吉本家の墓は、この駅で降りて、入り口からこうしてこうして行けばわかります。途中に誰それの墓があるから、それを目印にすればいいや」なんて事務的なことを、伝言のように聞いていました。「死っていうのは、じぶんに属してないんですよ。じぶんは死んじゃうんで、わからねぇから、家族とかね、周りが決めるものなんです」死んでやろうかと思ったときそのことに気付いた、と、闘病がはじまったころに言ってましたよね。
 
 
  彼岸の入りのせいで、ぼたもち、おはぎの広告や新聞記事が多く目に付く。ああ、父の誕生日は3/21であったから、ぼたもちが好きだったのかもしれない。突然、そのようなことを思い出して、ひょいとあんこの美味しさと懐かしさを舌に感じた。まもなく春が訪れるのだ。今朝はその足どりを早める小雨がしっとりと地面に滲みている。