大晦日に「田中角栄」を思う

 涙を流しながら読んだのは、早野透著「田中角栄」一冊だけだった。今年もそれなりに本を読んできたが、心がグラグラ揺さぶられた。田中角栄という人間の一生は、あの時代に生きる姿の典型であったからだ。幼少時から地頭は強かった。
 
 辺境地・新潟から上京する角栄少年の覚悟と不安は、紆余屈曲の流れの中で繰り返し自分の支点になっていった。現場塗(まみ)れの中から会得した教訓だけが、自らの人生訓になった。哲学的体系が欠けた思考法に留まらざるを得なかった。
 
 40代の頃、長岡市に初老の医師を取材で訪ねた。半日かけて周辺地区を案内してくれた。石油掘削機が乱立したセピア色の東山油田の写真。「一山超えれば西山地区だよ」と田中角栄のことに触れた。当時は「一山当てる」が成功の印だった。
 
 老医師は地元出身の三人の名前を上げた。悠久山の藩主墓地で河井継之助を、自宅書斎で山本五十六の長岡中学での最後の講話を、朝日山酒造に向かう車の中で、角栄の逸話を話した。医師は長尾姓で、上杉謙信の系譜だった。
 
 新潟では「弁当忘れても傘忘れるな」という。天気が急変し、冬は豪雪だ。新潟の人は寡黙で働き者が多い。その大気と水の中で、角栄少年は自らの夢を育んだ。少年の志の中で実現を図り、挫折した。やはり彼の一生には泣いてしまうのだ。