人生の「if」は開かれている

   昨夜、叔母が亡くなったとの知らせを受けた。80歳。母の弟の連れ添いである。叔父は10年以上前に亡くなっている。一ヶ月ほど前に、従兄弟から妹たちに叔母が入院して深刻な状態になっていると連絡があったという。昨日午前逝去。出身の秋田からも縁者が来るのを待つという。今晩仮通夜、明日通夜、土曜日葬儀に決まった。参列できないので朝一番で弔電を打ち、あとは弟妹たちに託した。
 
 同時代に生きた人たちが死んでいく。絆を本当に交わした人々だ。自分もそうした年代になっていることを改めて実感する。いずれも一生懸命仕事をし、一生懸命子どもを育て、一生懸命助け合ってきた同志でもある。昭和の時代に生き、平成の時代に落ち着いた生活にたどりついた人たち。昨夜は寝床に入って叔父・叔母との様々な交流場面を思い出した。
 
 さきほど息子の車で近くの明治(Meiji)関東工場のそばを通ったら、桜がまだだいぶ残っていた。一昨日、昨日の寒さと雨を乗り越えた残り桜でも色は濃い。以前、「人生に ifはないよと 桜散る」と詠んだ。一人の友人がメールをくれて、「切ないなぁ」と書いてあった。いま、自分でもそう思う。そんな当たり前のことを言い切って、なにになるのか。
 
 寝る前に読んでいる「シャクシャインの秘宝」(中谷航太郎、新潮文庫)にこんな文章があった。おばばの謎めいた問い。「この世は、ひとつの道筋に沿って進んでおるのではない。道はいく通りもあり、その時に至るまでに、だんだんと絞られてゆくのじゃ」、「その時になるまで確定しないものだ」。人生のifは現在、開かれている。そう思うことにする。