荻原浩「介護の鬼」

 昨夜寝る前に読んだのが、荻原浩著「押入れのちよ」(新潮文庫)に入っている「介護の鬼」という短編。夫の両親の介護をしながらイジメを続ける嫁が、最後は逆襲されるストーリーだ。姑はいじめられながらすでに亡くなり、いまは舅が寝たきりになっている。嫁は抵抗できない義父にこれでもかと隠微な悪態をつき、介護ストレスの溜飲を下げる。ところが最後の最後でどんでん返しが用意されている。
 
 この作品は読んでいる途中から結末が予想できないこともない。その結末のためにいろいろ書き込んでいる。そして、それが「現実化」すれば、読者は半分うなずき、半分考える。この「介護の鬼」も恐ろしい逆転劇だ。それは悲劇であり、喜劇だ。いや、喜劇であり、悲劇なのだ。今では「介護」という言葉にまとめられているが、親の面倒をみることは、ほぼ確実に一種の極限状態をもたらす。
 
 ふた昔前=「親孝行したいときには、親はなし」
 ひと昔前=「親孝行したくないのに、親がいる」
 いまどき=「親孝行してほしいのに、親がいる」
 
 シニア市場に詳しいジャーナリスト・高嶋健夫氏はこう述べる。われわれ団塊の世代の多くは親の介護の問題に直面している。我が家ではすでに双方の両親が亡くなったので、その点は解放されている。クラス会に行っても「親の介護」の話はいろいろ出てくる。団塊の世代65歳を迎えたが、かつてこの年齢のジジ、ババはすでに「年寄り」だったのだ。70歳にもなると多くの老人は嫁の厄介になった。
 
 介護する方も、される方ももろに「自分のすべてをさらけ出さなければならない」。そのグロテスクな日常の真実を荻原浩は「介護の鬼」で現している。嫁にイビリ倒された姑の仇を「寝たきり」を装い続けた舅が最後に果たす。極限状況では人間だれもが何にでもなれるのだ。そのことを噛み締めると、ひとしきり性格が悪くなった。また、眠る前に変なものを読んでしまった。