「情に厚いが勝負は非情」

   昨夜の日本シリーズ解説の山本浩二氏が「星野監督の背番号77は、川上さんの監督時代の背番号からきている」と話していた。このエピソードに星野監督、山本氏と同世代の自分は、あらためて川上哲治氏の偉大さを思い返した。
 
 今朝の読売・スポーツ面のコメントから。1974年に巨人の10連覇を阻んだ中日の主力投手だった楽天星野監督「大往生だと思う。野球の知識だけでなく、勝つためにいろんな書物を読んでいた。三国志とか韓非子とか。今年のリーグ優勝後にはがきが来て『最後までしっかりやれ』と書いてあった。情に厚い人だったが、勝負に対しては非情だったし、そういうところを(監督として)学んだ」。
 
 三十代の頃、出張で熊本に三回行った。最初の時にタクシーの運転手さんから教えてもらった川上さんが通う馬刺しの店に、毎回行ってみた。川上さんが現れないかと期待したが、それはなかった。酒「美少年」で流し込みながら、川上さんを思い、そして、食べた。
 
 川上さんの流れから長嶋、王両監督はもちろん広岡監督や森監督という名監督が生まれていった。昨日誰かが「川上さんは日本プロ野球の父だった」と述べていたが、まったく同感だ。スポーツといえば=野球だった。我々の世代はそんな時代に生きてきた。
 
 昨日、「報道ステーション」のゲストに引退したばかりの前田智徳が出演していた。「川上二世」と呼ばれた天才打者だった。川上さんと同じ熊本生まれで、雰囲気もどこか似ていた。川上さんのいわば「打撃道」に通じる大器だった。熊本は宮本武蔵が「五輪書」を書いた土地でもある。札幌にいるわが恩師も熊本出身の肥後もっこすだ。こんなことを書くと「余計なことだ」と怒られるのだ。