「昭和史を書けば、死んでしまう」(司馬遼太郎)

 昨日午後、NHKETV特集司馬遼太郎の遺産」第1回目「歴史からの視点~日本人は何ものか~」(1996/4/1放映)の再放送を観た。司馬作品は彼の戦争観から生み出されたと深く再認識した。司馬氏がなぜ「昭和史」を書かなかったかといえば、本人は「苦しくなって死んでしまうからだ」と述べている。たとえば彼は「ノモンハン」を調べ尽くしてはいたが、書かなかった。
 
 これは絶望なのだと思う。「昭和」の時代には、彼が書きたい「日本人」がいなかったということでもある。坂本龍馬土方歳三や秋山兄弟が示した筋の通った倫理観と合理的な世界観が見られなかったのだ。簡単に言えば、司馬氏には昭和のリーダーたちに「自らの信念にストイックなまでの誇りを感じて生き尽す」姿勢を感じることができなかった。
 
 それは「自分にも周りの人々にもウソをつかない、姑息に生きない」ということだった。日露戦争前までのリーダーたちは、同時代の人々に真摯に対して、その上でこの国の「戦略」を突き詰めていったのだ。そうした人間的に優れた資質と美しい倫理観を兼ね備えていた。しかし、戦車部隊に入った司馬氏が体験したのは、軍指導部リーダーの「薄さ」と「乱れ」だった。
 
 終戦間際に彼の部隊は満洲から栃木・佐野に移動して本土決戦に備えた。しかし、ノモンハンの「惨敗」は隠蔽された。また、関東からの避難民が北上してくるのを佐野から南下する戦車部隊でひき殺しても進めとの命令に、愕然としたのだった。これが作家になることを決意させた。そして、「日露戦争の勝利こそが日本の針路を狂わせた」と喝破した。
 
 最後にナレーションで「21世紀に生きる子どもたちへのメッセージ」が流れた。教科書用に書いたものだ。彼自身の「昭和」に対する絶望を乗り越えて、子どもたちに「お互いの思いやり、助け合い」を強調していた。日本人がかつて持っていた矜持の原点であり、子どもたちの手で新たに構築してほしいと呼びかけていた。彼の最後の「希望」であった。