父、51歳の遺影

 「君が教員になっていたらどんな人生だったろうか?」、友人Kくんからメールがあった。昨日ブログで「40数年前に東海大四の教師になりそこねたジジイが応援してる」と書いた。その当時、Kくんは同校の近くで新婚生活をスタートさせ、休みの日に野球部の練習を見に行ったという。長い返信をした。
 
 
『大学の指導教官(英語科のその年の担任、真面目な教授)から「東海第四高校校長から候補者がいたら面接する、と言われている。君、行って来たらどうか」との話がありました。面接日の前夜に前祝と称して友人と深酒しました。翌朝、円山のアパートからバスで東海第四に向かい、バスを降りて坂を上り始めたら一気に酔いが戻ってきました。校長室で面接しましたが何を話したのか、まったく記憶がなく、気がついたら坂を降りて下のバス停に立っていました。一週間後にその教授から呼ばれ「来年、英語は採用しないことにしたそうだ」と言われました。それはすでに覚悟していましたから、「ご迷惑をかけました」と頭を下げました。そのこともあって東京に出ることを最終的に決心しました。あるいは東京に行きたかったからそんな不真面目な態度を取ったのかもしれません。若いころというのは、本当にバカですよね。貴兄が言うとおり、教師になったら人生はまったく違っていたでしょう。女房は今でも「だまされた」と言っています。教師と結婚するのが夢だったのですから、当然ですよね。そんな自分の苦い思い出をブログに含ませてあります。貴兄だけが読み取れる一行です』
 
 父は私を教師にしたいとずっと思っていた。だから、入学が決まった時は、とても喜んだ。入学式前に一緒に札幌に行き、親戚の人たちによろしくと頼んでくれた。その朝、背広、コートにネクタイで撮った写真が遺影で、実家の仏壇の横に母の写真と一緒に掲げてある。一年半後に、海難事故死した。写真の51歳の父は穏やかに笑っている。