満開の桜と人の死

   昼過ぎに戻った家人が「自治会公園の桜がほぼ満開だよ」と知らせた。運動靴を履いてゆっくりと散歩に出かけた。「公園にある10本余の桜は八分咲きで満開を超える趣きだ!!」。ついでに桜並木のある県立ろう学校通りまでパトロールしたら、まだ三分咲きだった。帰宅して高校野球を観ていたら、札幌の妹から電話が入った。「良い知らせじゃないんだけど…」。
 
 北海道・積丹町の義弟の弟が今朝、亡くなったという。我々兄妹の三人合同で弔意を表そうと相談した。まもなく積丹町の妹から携帯に連絡が入った。「ガンで大変だったの。今年の秋で定年退職してゆっくりしたい、と言っていたのに―。すごく残念だ」。自宅は恵庭だが、千葉県内で勤務していたらしい。昨秋、積丹に来て兄妹たちと楽しい時間を過ごしたという。
 
 先日浦和のMくんと会った時に、「弟が数日前に亡くなり、ようやく一段落した」と話していた。自分と同じ時代と戦場を生き抜き、真面目に仕事をやりぬいて世を去った。それを聞いていて、ほとんど慰めの言葉を失っていた。兄弟姉妹は誰にとっても己の分身である。親を失うのとはまた異なる痛さと空虚さをそれぞれの兄たちは感じている。
 
 「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」と西行は詠んだ。満開で空まで染める桜には、どこか死の影がつきまとう。その予感を書いた作家は何人もいる。桜がもつある種の狂気の裏返しでもあろう。数日間の饗宴のあと潔く散る。弟を思う兄たちに贈る。「散る花や咲く花よりもひろやかに」(永田耕衣)。人は死んで同志の肝に深く生きていく。