日本人の「マジョリティ」

一昨日の衆院特別委員会採決、昨日の衆院本会議通過によって、安保法案は今国会での成立が確実になった。この二日間のマスコミ報道をできるかぎり注視してきた。与党も野党も拠り所は「マジョリティ」だったが、その中味は正反対だった。
 
与党は衆院で圧倒的多数なので目算通り可決した。野党は「国民の大多数が理解していない」と批判し、国民に反対を呼びかけた。しかし、いずれも国民の政治不信を増幅させた。あざとい与党にパフォーマンス民主党は完敗した。
 
議論がかみ合わなかった。「抑止力が高まる」VS「米国の戦争に巻き込まれる」が平行線のままだ。「合憲」VS「違憲」、「自衛隊のリスクは高まらない」VS「高まる」も真逆のままだ。「国民の皆様に丁寧で分かりやすい説明」の応酬がまことに分かりにくかった。
 
昨日テレビで誰かが「安倍政権はまるで企業のように成果のみを焦った」と語っていた。企業に失礼だ。企業はグローバル化しているので、企業統治と法令順守の仕組みは備えられつつある。まだ魂が入っていない会社もあるが、政治の世界よりは厳しく、風通しが良い。
 
安倍首相は内向きの自民党ネット配信に篭もっていないで、外部に向けて己の覚悟を堂々と語るべきだ。党内無風状態では、カビが生えて組織が腐ってくる(いる?かな)。政治家も、我々も国際情勢が混迷するなかで今、「平和」をどのように実現するのか、重い覚悟が問われている。
 
従来の日本人のマジョリティの傾向は、単一農耕民族のために、近隣との争いを好まず、争っても最後は和解せざるを得ないというDNAを持つことに起因する。自分の意見は勝負が決まるまで出さないか、勝負が決まりそうになって初めて出す。その姿勢の是非が問われ始めている。