暮れの記憶
子どもの頃、暮れの26日もスケソウダラの最盛期入りでわが家は多忙だった。父親は連日漁に出て、漁業無線で「5万(尾)なので、手配頼む」などと伝えてきた。陸に上げた網から魚を外す働き手(はずし子)を確保しておけという意味だ。小母さんたちが小さなカギで傷つけないように網から外した。中学生ぐらいになると、その魚を運んだり、箱につめたりした。
船の寄港時間は連絡が入るので、母は準備を進めた。小学4年生のオレはときどき弟や妹にご飯を焚き、味噌汁を作り、魚を焼いて食べさせた。頼んでいた飯炊きの婆さんが老齢化して休みがちになったからだ。中学生になると忙しい叔父の幼児を叔母から預かり、夜まで面倒をみた。負んぶして毛布で重装備の上、港の叔母のところに連れて行った。
父は時化の時には神棚の掃除をして、新年の飾り物を半紙で折った。いろいろな置物を柔らかい布で磨き、水木に繭玉飾りが子どもたちの役目だった。それが終わると午後からは餅つきが始まった。玄関に臼を置いて7,8回やった。台所ではストーブが赤くなってもち米を蒸していた。小学3年ぐらいから杵を持たされ始め、6年になれば一人で何臼かを突かされた。