上田市育ちと北の海育ち

   二人目の社長として仕えたのが、長野・上田市出身のNさんだった。彼はすばやく四方に目配りし、果敢で柔軟なアプローチを得意とした。大学時代には卓球選手として活躍した。わたしが最初に入社した会社の先輩だった。彼は独立して、その後、わたしも移籍した。
 
 Nさんの会社には8年半おせわになった。最初のNさんのイメージは前の会社での働きからデータ管理の専門家だと思っていた。最新のファイル方式などを提案していたからだ。彼と一緒に仕事をして、経営を総合的に組み立てようとの将来目標が分かった。
 
 「彼の営業力はすごかったね、働き過ぎが命を縮めたのだろう」、3年前に病気で亡くなったなったときに参列していた友人たちはそう話した。わたしは彼の性格からして決してそうは思わなかった。健康管理には神経質すぎるほど気を使っていたからだ。
 
「情報はスピードが第一、かつ質的に優れたものを」が口癖で、厳しく指導を受けた。「午前1人、お昼ご飯で1人、午後は3人、夜1人、とにかく外部の人と会いなさい」。具体的な情報交換でなければジャーナリストは会ってくれない。頑張ったが一日4人が限度だった。
 
自分の仕事スタイルはこのとき身につき、基本は今でも変わらない。若かった勢いで、ずいぶん反抗もした。懐かしい思い出だ。昨夜「真田丸」を観ていて、山々を臨んで育ったNさんと、北の海育ちの自分は根幹的な価値観で理解できないところがあったのだとあらためて気づいた。