“Gone but not Forgotten”

 北ボルネオ・コタキナバルのTさんからメール。「私の滞在期限は残り2週間あまりになりました」。最初の1ヶ月と後の2ヶ月は同じくらいのスピードで過ぎ去っているような気がする、と書いている。自らのミッションが順調な証しだろう。
 
” War Memorial “のことを記します」。フィリピンでの「パターン死の行進」は有名だが、ここボルネオ島での「サンダカン死の行進」のことはあまり知られていないかも知れない。コタキナバル市郊外にある、オーストラリア軍兵士とイギリス軍兵士合同の”War Memorial “ を見てきた。そうある。写真7枚添付。
 
1945年初頭に日本軍は飛行場を建設するために、サンダカン捕虜収容所に、オーストラリア兵約1、800名とイギリス兵 約700名を集めた。建設途中、米軍の圧倒的な上陸作戦から逃れるため、1945年1月から6月にかけてサンダカン西方およそ260キロ離れたラナウという土地に、部隊と捕虜は移動を開始した。
 
日本軍の荷物を1人約30キロ分背負い、多くの捕虜は裸足で移動。密林や湿地帯を行進したが、多くの者が疲労、食糧不足、病気のため悲惨な移動となった。飢餓や病気で倒れる者が多くなり、歩くことが困難な者に対して日本兵は容赦なく射殺を繰り返し、目的地に着いた頃には捕虜の生存者は逃亡に成功した数名を含み、僅か6名だけ。
 
「なんとも壮絶、悲惨な『事件』です、『war memorial』のおびただしい死亡者の氏名、年齢、出身地、死亡日の刻印リストを見ているとなんとも言えない気持ちになります。書かれていた言葉、”Gone but not forgotten” が印象的でした」
 
かつて「サンダカン八番娼館」(山崎朋子)を読んで衝撃を受けたが、帰国後のTさんのサンダカン報告が銘記されていた言葉に及ぶのはまちがいない。