死に際の美学

 昨夜坂戸教会の連絡網が来た。家人は受話器でしばらく確認していた。「Aさんのご主人召された」。土曜日とどいた坂戸教会の週報に「A姉ご主人の健康のためにお祈りください」と書いてあった。気持ちを落ち着かせてからA姉に電話した。
 
 ここ数ヶ月から当日までの様子を詳しく話してくれた。いくつかのことを感じた。死を直視しなければならなかった心情、あくまでも自分らしい貫き方、最期に家族に「病床洗礼の希望」を伝えたこと。(タイミング)が合わず実行されなかった。
 
 かつて八丁湖で教会の修養会を行うたびに、帰りにAさん宅に寄ってお茶をご馳走になった。ご主人は一升瓶までかかえてきて歓迎してくれた。クリスチャンの誰も手をつけない。仲間だった自分と彼は注ぎ合い、お互いに笑いあった。
 
 みんなが注視するなか、二人同時に飲み干した。なかには批判的な顔をする人もいた。二人の会話は時代小説論になった。そんな仲だった。高島平に派遣される夜に電話をもらった。「命を懸けてやってこいよ」。贈り言葉はいまも胸にある。