扇谷正造先生を想う

今朝の「天声人語」で、「週刊朝日」と「サンデー毎日」が創刊90周年を迎えたと述べている。「週刊朝日」とくれば、真っ先に名編集長・扇谷正造氏を思い出す。自分が昭和46年に入社した会社の顧問をしていた。月一回来社して若手社員を集めて講話をしてくれた。当時、すでに朝日新聞社を辞めて、フリーランスで活躍していた。小生が最初にこの会に出たときに、一番前列で足を組んでいて厳しく怒られた。ビジネス社会ルールを何一つ知らずに上京して、広報専門会社に入った自分が受けた最初の手厳しい『洗礼』であった。本気で怒られたので、妙に納得していた。以後、毎回出て興味ある週刊誌作りのあれこれを、「扇谷マジック」とでも言うべき話芸(!!)を通して学んだ。当時、扇谷先生はほぼ毎月のように新刊書を世に送り出し、われわれ少年兵にも一人ひとりに励ましの言葉を入れて贈呈してくれた。いまでも持っているし、人間を多角的に、鋭く観察していたこれら著作の内容は現在でも立派に通用する。これも会社の社員教育の一環であった。良い時代に育ったと思う。
 
何回か講演に同行した。行きの電車の中では熱心に原稿を書いていて、近寄りがたい緊張感を抱いた。こうした仕事に対する集中力は学ぶべき点が多かった。講演が終わって主催者による食事の席には小生を隣に座らせ、人との対応の見本を示してくれた。帰りの電車ではお酒を飲みながら、さまざまな話を聞かせてもらった。タイトルのつけるときの工夫、企画の立て方などその後の小生の仕事に数多く取り入れてきた。忘れられない一言がある。「60歳ぐらいになると母親が作ってくれた料理が一番美味しく感じるようになる。1617歳のときに食べたものが体の芯にあるからだよ」。特に優しい口調でそう言われた。行きの時とは真逆の表情で、硬軟双方ともに、その後自分が活動していくときの一つの鏡になった。ちなみに「おふくろの味の肉じゃがが食べたいよ」と笑った。