三浦しをん「舟を編む」(2)

 いま伝えなければならない、という思いに突き動かされ、荒木(*ベテラン編集者)は口を開いた。「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか」。「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」 魂の根幹を吐露(とろ)する思いで、荒木は告げた。「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かび上がる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠(ぼうばく)とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
 
こうして海を渡るにふさわしい舟を編む作業は始まっていく。「舟を編む」(三浦しをん著、光文社刊)の序盤の場面である。このブログで5/8に取り上げた作品だ。特養ホーム施設長は、次の文章を引用し、「言葉というものを追究していけば、人間の思いの根源、そして目に見えないいのちの基に必ずつながっていく」と述べていた。自分はこの「いのちの基」という言葉に反応したのだった。
 
「何かを生みだすためには、言葉がいる。岸辺(*女性編集者)はふと、はるか昔に地球上を覆っていたという、生命が誕生するまえの海を想像した。混沌とし、ただ蠢(うごめ)くばかりだった濃厚な液体を。ひとのなかにも、同じような海がある。そこに言葉という落雷があってはじめて、すべては生まれてくる。愛も、心も。言葉によって象(かたど)られ、昏(くら)い海から浮びあがってくる」
 
著者は、死者とつながり、まだ生まれ来ぬものたちとつながるために、ひとは言葉を生み出した…俺たちは舟を編んだ。太古から未来へと綿々とつながるひとの魂を乗せ、豊穣なる言葉の大海をゆく舟を。と結んでいる。
 
この物語では、それぞれ弱さをもつ人物たちがお互いに補い合い、支え合いながら、気が遠くなるほどの時間をかけて「大渡海」を作り上げていく。新たな時代でも人間がつながりあう共同体は今からでも可能なのだ、という作者の明らかなメッセージを感じる。