油壺の悲劇

昨夜、日本橋人形町の焼き鳥「久助」で、K社長が語った自らの家系の悲劇が興味深かった。同氏の祖先は元々三浦半島の支配者であった三浦一族の家臣であったが、油壺の地でほぼ全滅したという。そのとき生き残った数人が逃れて、現在に至っているとのこと。その姓を名乗るのはいまは40軒ほどで、すべて親戚に当たるという。同氏は横須賀出身で、その後、茨城の水戸で育った。
 
油壺湾三浦半島の南西部にあり、リアス式の入り江になっていて、現在では奥がヨットハーバーになっている。この平和な湾がかつて三崎城が落城したときに、血の海に染まったのだという。三浦氏一族の死体から流れ出る多量の血が湾の水面を覆って、やがて血の赤い色が黒ずんでいき、まるで油のように黒っぽくなったことから油壺と言われるようになった、とK氏は話した。戦国時代のことである。
 
三崎城は相模三浦一族が築城した城で、三浦一族は元来「三浦水軍」を持っていた武装集団であったそうだ。この三浦氏は後の北条早雲との争いを三年間も続けた後に、滅亡された。K氏はこのことを詳しく話し続けた。そして、さらに印象深かったのは、K氏がいまだに自分の家系、とくに姓が男児によって続いていくことに強くこだわっていることだった。過去を未来につなぐ役割を、これほどまでに意識している人もそういない。家の歴史とはやはり重いものである、と彼は固執している。