1968~1971、のこと

  今朝の「読売」文化面の「昭和時代・戦後転換期~若者たちの反乱(上)」が「全共闘運動、大学に反旗」と取り上げている。日大闘争、東大闘争を俯瞰して書いている。1968年から1969年にかけての両大学の紛争がやがて全国に広がっていく。まさしく燎原の火のごとくバリケード封鎖、ヘルメット・ゲバ棒の闘争に拡大していった。われわれの学生時代はいずれにしてもこのような騒然とした空気の中で試行錯誤の真っ只中にいたことを、あらためて思い返した。時代が焼けていた。
 
 先日書いた篠田正浩監督の「心中天網島」は1969年に公開された。監督の篠田も、脚本の富岡も、音楽の武満も、美術の粟津もまだ若かったが、われわれ学生からは見上げるほどの光を放っていた。揺らぐ社会を背負った映画製作であったことが、今でははっきりと理解することができる。大島渚然りである。日本という国全体に得体の知れない蠢(うごめ)きが覆いかぶさっていたのだ。発展でもない、退廃でもない。逆に、何かが社会を動かそうとしていたのかもしれない。
 
 今日の「時代の証言者」(読売)から――篠田正浩は、「沈黙」(原作・遠藤周作)の映画化に資金面で苦労しながらも完成させて1971年に公開し、国際的に高い評価を受けた。「その企画が中断していた7011月、主人公ロドリゴ役の俳優をいったん帰すため、銀座で送別会をした。外に出ると、三島由紀夫さんとばったり出会った。三島さんは『あれは素晴らしい小説だよ。君、しっかり頼むよ』と言い、あまり握手をする人じゃないのに、握手してわかれた。その数週間後でした。彼が自衛隊市ヶ谷駐屯地で壮絶な死を遂げたのは」。19701125日、三島由紀夫はクーデターを促す演説を行い、終了後割腹自殺した。小生は古平の実家から札幌に向かうバスの中で、中学同級生の女子から聞いた。胸の鼓動が体を突き破るほどだった。
 
尾崎紀世彦が癌のため69歳で亡くなった。1971年に「また逢う日まで」で日本レコード大賞日本歌謡大賞を受賞した。日本人離れした(実際、父親は英国と日本のハーフだった)顔の彫の深さと豊かな声量による歌唱法で、ひとつの時代を席巻した。1971年は小生が社会人になり、上京した年である。その10年後ぐらいに、銀座コリドー街の喫茶店で仕事をサボって本を読んでいたら、強烈なオーラ?を放って、尾崎紀世彦がマネジャーと付き人らしき二人を従えて、店に入ってきた。目の前を通って奥の角の席に座ったが、底がかなり高いブーツ、シークレットブーツを履いていたのがはっきり見えた。我が儘そうだった。芸能人は皆そうだろうが、彼は芸能界嫌いの一種の変人でもあったらしい。ということは、まとも??