「うそいふな。ものほしがるな。からだだわるな」

今朝の日経「春秋」の書き出しはこうだ――「なんとなく面白くない」。そんな顔をした大人たちと、一日に何度もすれ違う。多くの人が夏の終りを感じ始めたからだろう。ふと耳にした風鈴の音が寂しげに聞こえる。寿命を終えたセミが道端に転がっている。お盆休みが明けて、都内には人と車が戻ってきた。
 
 昨日夕方、セミが小生の左ひじに止まった一瞬、飛び去った。セミにすれば細い木の枝と間違っただけだろうが、こっちはビックリした後に頭が真っ白になった。まだ暑いので髪を短く切って、ショッピングセンターから駅前通りに出たばかりの時だった。向かい側の郵便局は休日閉店で、その入口扉のところをボーと眺めていたのだった。
 
 何故か突然、友人のO氏を思い出した。独特の人生観をもっていて、会うのが楽しみな一人だ。4月後半にお昼の後に長い時間話し込んだ。彼は渓流釣りの話をして、釣れない時は仰向けにひっくり返って雲の流れを見ているという。今度、誘うから一緒に行こう!!と言ってくれた。そして、「たのしみは朝おきいでて昨日まで無かりし花の咲ける見る時」と声を出して詠み、橘曙覧(たちばなのあけみ)の「獨樂吟」の一首だと教えてくれた。(4/28付)
 
 ノートの内袋から昔の切抜きが出てきた。朝日「磯田道史のこの人、その言葉」(2010.9.4付)。なんと、橘曙覧の子どもへの遺言であった。「うそいうふな。ものほしがるな。からだだわるな」。「だわるな」は福井の方言で「だらけるな」の意味。この記事はすっかり忘れていた。散髪して頭は涼しくなったが、心はまだまだ未熟で、当分涼しくなれない。そう痛感した。