「一人も路頭に迷わせない」

   日経「春秋」が「出光の大家族主義」を取り上げている。「敗戦後、中国や台湾の店舗網をすべて失った石油大手の出光興産は、国内従業員の4倍にあたる約800人が続々帰還。そこで創業者の出光佐三社長がかけた大号令は、とにかく仕事を作り出すことだった。ラジオの組み立てと修理、旧海軍の石油タンクから油を回収する作業や印刷業、農業、定置網漁業なども営む。どれももうからず一時的な事業に終わったが、雇用を守った。佐三氏の『大家族主義』を示すエピソードだ」と書き出している。
 
「一人も路頭に迷わせない」。大見得をきった佐三は鳥取県・大山のふもとの農地開発に取り組み、茨城県・石岡にはしょうゆ、酢の醸造工場を建てた。三重県・木の本(現・熊野市)で定置網漁業権を貸してもらって水産にも手を出した。これらはいずれも1~2年後には行き詰まり、赤字を残して倒れてしまう。ラジオ部は「300店つくる計画でやる」と始まり、ラジオの修理のほか無線機も売ったようだ。配属されたある社員は79kgの体重が半年で56kgに落ちたという。(「出光佐三録・反骨商法」鮎川勝司著参照)
 
戦争に負けた日本に油はない。GHQに「原油を輸入させてほしい」と頼んだら、「海軍のタンクの底に油が残っている。それを処理してからにしろ」とOKが出なかった。そのタンクはほとんどが土砂に覆われた秘密基地で、ガスが発生して爆発、中毒の危険があった。戦争末期、油欠乏の軍でさえ手をつけなかった難儀な仕事だった。佐三はそれを引き受けた。出光の歴史で、全社あげて、これほど肉体的に激しい経験はないという。しかし、これが出光の業界復帰につながる再起のバネになった。( 〃 )
 
小生は20代後半、出光興産担当としてほぼ毎日訪れていて、これらの話を役員やベテラン社員から聞いた。若手社員にも先輩たちの苦労は語り継がれ、それが出光の『大家族主義』の核を成していた。淡々としていながら心底心遣いをしてくれる社風だった。出光佐三店主がまだお元気で麻生店主室長の傍で何度かお話を伺う機会があった。城山三郎氏との対談に同席した時には、経済談義にとどまらず、世界レベルの文化論にまで話は及んだ。今でも出光美術館を訪れる人々は多い。常設展示も企画展も独自の格調を誇っているからだ。