正津勉著「忘れられた俳人・河東碧梧桐」

 今朝の朝日新聞「おやじのせなか」で映画監督の中村真夕さんが、父である詩人・正津勉について語っている。「無頼派などと呼ばれ、恋とお酒に明け暮れてきました。当時、父がくれた手紙には『真弓ちゃん』とあり、自分が交際していた女性と混同したらしい」ともある。「教科書に載るような詩人ではなく、どこの組織にも属さない。いつも貧乏だったのに、なぜか食っていくことができた。この事実は今、私を支えている」。
 
 「Midnight Press」という詩の雑誌がある。友人の作家・F氏が応援していて、以前小生にときどき贈呈してくれていた。かなり前のことだが、その詩誌で初めて正津勉氏の名前を知った。そう記憶している。谷川俊太郎氏と気の遠くなるほど長い対談を行い、その全文を連載していた。いわゆる筋の通った詩人同士の知の真剣勝負の感があった。粘り強いエネルギーを秘めた詩人なのだと読む度に思っていた。
 
 毎日新聞8月6日朝刊にこうあった。(以下引用)「詩人の正津勉河東碧梧桐(へきごとう)の生涯に迫った『忘れられた俳人 河東碧梧桐』(平凡社新書)を出した。碧梧桐は、正岡子規の門弟で、高浜虚子と並び称された俳人。近代俳句の革新者でありながら、いまはほとんど語られることがない。詩人の目で切り取った表現者の孤独が、初めての評伝から見えてくる。語りかける独特の文体で、詩人はまず碧梧桐を「歩く人」と書く。歩行することによって碧梧桐は、感覚の渋滞を逃れようとした。
 
歩行はもちろん移動だ。『虚子との対立から、いわゆる新傾向、自由律と変転極まりなく、俳壇の引退まで。いったいなぜ彼がいっときも止まることなく歩きつづけたか』、そしてなぜ『絶望的なまでに無理解』のうちに忘れられたのかについて正津は、綿密なタッチで分析する。<たとふれば独楽のはぢける如くなり>。虚子はかつてのライバルにこんな追悼句を贈った。今年は没後75年。弾けるように生き、没した碧梧桐を正津は、『近代文学史上傑出した表現者』と見る」。
 
「赤い椿白い椿と落ちにけり」。子規が取り上げ、印象明瞭を好む句の一例としたので、代表句となった。明治29年、碧梧桐24歳の作。数日前もこの本の紹介を見たが、確認できない。「日刊ゲンダイ」だったかもしれない?!