今年の栗は半月遅れ

昨日M先生ご夫妻が栗を持ってきてくれた。隣町の東松山市の山に栗林を持っていて、最近は毎年、届けてもらっている。それまでは小生の友人たちを誘って栗拾いに出かけ、数家族ぐるみでバーベキューを楽しんだ。体調が悪くなってから欠席しているので、わざわざ自宅まで持参してくれる。栗も秋の味覚の代表格だ。
 
いつもの年はほとんど9月後半がその時であった。こんな会話が交わされた。「今年は今頃までなっているんですか?」「そうなんだよ、夏の暑さが長かったので栗が熟すのが半月以上遅れていた」「出来はどうでしたか?」「雨も少なかったので、やはりいつものようにそろって大きい粒にはならなかったね。大小さまざまという感じだ」。M先生は少し苦笑いを見せた。
 
「今年はまだキンモクセイの香りが漂ってこない―東京あたりではそんな声をよく聞くから開花が遅れている場所が多いのだろう。花のありかはしらねど、この季節の通勤の道に、しめやかな夜の窓辺に、不意に流れくるむあの匂いだ。去年の今頃は・・・と忘れていたことを思い出させてくれる。匂いが記憶を呼び覚ます『プルースト効果』というものだろう」(日経「春秋」10月13日付)
 
「木犀の香や年々のきのふけふ」(西島麦南)
金木犀風の行手に石の塀」(沢木欣一)
 
大岡信の初期の詩集に、この花の匂いで小猿がさわぐ詩があったなぁ、と思い出した。久しぶりに二階に上がって昔の本棚から「大岡信詩集」(思潮社、1969年)を引き出して確認したら、記憶違いだった。「沈丁花のしげみの後ろに 小猿がしゃがんでぎゃっぎゃっ 歯をむき出すので 魂がちぎれてしまった・・・」(「声のパノラマ」)。沈丁花は春、金木犀は秋の季語である。記憶までズレていた。