浅草から映画館の灯が消えても―

 ビートたけしが「『史上最大の作戦』という洋画を初めて兄貴に連れて来てもらったのも、浅草の大勝館という映画館だった」と「浅草キッド(大田出版刊)に書いているそうだ。けさの読売「編集手帳」に出ている。「日本初の常設映画館が置かれた東京・浅草は『映画館発祥の地』ともいわれる。最盛期には20~30館が軒を連ねていた浅草から映画館の灯が消えるという」。
 
 当時の映画は庶民の最大の娯楽であり、最先端のメディアでもあった。たけし氏とは同年代なので、彼が『洋画』に感動したという思いはよく分かる。小学生のころ近くの映画館「オリオン座」に毎週のように叔母に連れられて通った。本当は学校で担任の承認ハンコが必要だったが、だれもそんなことはしなかった。ところが、担任もときどき来ているのでトイレで鉢合わせすることもあったりした。下を向いていたら、黙って通り過ぎた。
 
 さて浅草である。高校の修学旅行で上京した際の自由行動日のこと。たしかSさんの叔父さんがSさんとK君を東京案内に迎えにきて、K君が小生も誘ってくれた。それで、浅草に連れて行ってくれたのだ。東京オリンピックが10月に終った直後であった。浅草の喧騒は道内では見たことのないものだった。叔父さんはわれわれを『浅草国際劇場』に誘ってくれた。倍賞千恵子主演の下町映画&実演「西郷輝彦ショー」であった。
 
 このときの興奮はいまでもはっきりと覚えている。映画も、西郷輝彦の光り輝くステージも青春の記憶の中に収められている。西郷の歌の詩はだれが書いたのか、誰が作曲したのか!? そんな世界を創れる人が羨ましいと思った。やはり東京は凄いところだ。いつかまた来ていろいろな世界を見てみたい。心からそう思った。小生の「東京に行きたい病」はどうやらそのときから始まったようだった。