「お龍(りょう)、ここにいた」

今朝の朝日第2埼玉版「ひと・まち」に「龍馬の妻・お龍、ここにいた」とある。横浜市神奈川区の「田中屋」で働いていた。田中屋は東海道五十三次神奈川宿でもっとも大きな料亭で、幕末の創業だ。龍馬の死後、西郷隆盛を頼って上京したが、翌年、西郷は征韓論で敗れて下野した。助け舟を出したのが勝海舟で、なじみの田中屋に雇ってもらった。こうした横須賀市郷土史家による説を紹介している。
 
横浜駅から徒歩10分の場所にいまも田中屋は江戸の名残りをとどめている。女将は「先々代の主人は『お龍さんを世話したのは下野する前の西郷さんだ』と言っていた。真相はわかりません」と述べている。お龍が田中屋に来た当時は33歳。米領事館から英語の書物を取り寄せて勉強していた。「龍馬と行く約束をしていた米国に、一人でも行きたい」と主人や同僚に話した、と語り継がれていたという。
 
ウィキペディア」によれば、明治7年に勝海舟または菅野覚兵衛の紹介によって田中家で仲居として働いた。田中家に伝わる話でも頑固で使い辛かったとのこと。翌明治8年に西村松兵衛と再婚し、西村ツルとなり、横須賀で暮らした。松兵衛は元呉服商の若旦那で、寺田屋時代のお龍と知り合いであった。維新の動乱時に家業が傾き横須賀に移り大道商人をして生計を立てていた。覚兵衛などの世話でお龍と結婚することになったという。また、料亭田中家で仲居をしていた時に松兵衛と知り合ったという説もある。
 
一坂太郎「わが夫 坂本龍馬 おりょう聞書き」(朝日新聞出版、2009年)を持っていたのでさっき捜したが、見つからなかった。妹か、娘にあげたような気もする。お龍本人の言い分も書きたかったが、残念だった。「お龍の晩年は落魄し、貧窮の内に没した」と伝えられる。当時の女性としては抜きん出て個性的であり、その生涯は波乱万丈であった。明治39年1月、66歳で死去