開聞岳(薩摩富士)

   「去年の夏、薩摩半島を旅行していて開聞(かいもん)岳の美しさに目を奪われた。900メートル余りと決して高い山ではない。だが東シナ海に突き出すようにそびえる「薩摩富士」の存在感は格別である。昔から鹿児島湾に入る船が目印にしていたそうだ。▼実はこの山を目印にしたのは船人だけではなかった。先の大戦末期、20キロばかり北北西にある知覧の基地を飛び立った特攻隊の戦闘機はまず、開聞岳を目指した。そこからまっすぐ南下すれば標的の米軍艦隊がいる沖縄の海だった。美しい山に別れを告げ攻撃に向かったという。▼だから知覧の基地跡の特攻平和会館を見学した後、この山を仰ぐと涙でかすんで見える。だがそれは、特攻隊の若者が望んだことではない気がする。あくまで祖国の勝利を信じ、守り抜くために命を落とした。しかも日本に残したものは小さくなかったからだ。」(今日の「産経抄」から)
 
  
 
 かつて種子島に取材で行った帰り、大阪伊丹空港までプロペラ機(乗客20人乗りぐらい?)に乗ったことがある。カメラマンと一緒だった。離陸してしばらくすると、小さな窓から美しい円錐型の山が海に突き出ていた。「開聞岳だ!!」、言葉少ないカメラマンが珍しく大きな声で私に伝えた。ちょうど夕暮れに入る時間だった。その山は濃い紫色に見えた。
 
 カメラマンのほとんどは博学である。私の知らないこの山の話を静かな口調で教えてくれた。その中に知覧の特攻隊のいきさつも含まれていた。ジェット機と違いプロペラ機の進行はきわめて遅い。いつまでも紫に染まった開聞岳のくっきりとした影が、飛行機を追いかけてきた。この種子島行きで、もう一つ、自分の記憶に何かが刻まれた。
 
 もう一つ、とは前夜のことがあった。島の名士から話を聞いたが、その最後に「オフレコで」と話してくれた。司馬遼太郎氏が薩摩焼十四代沈寿官氏と種子島で一緒に酒を飲んだ時の逸話である。80歳を過ぎていたその方は、宴席での司馬氏のはしゃぎ様に感激し、喜んだという。写真も数葉見せてくれた。司馬氏がどでかく笑っていた。