日本酒私史

今朝の朝日新聞別刷り「GLOBE」が「日本酒サバイバル」を特集している。「日本酒の出荷量が40年前の約3分の1に落ち込んでいる。東北を中心に回復の兆しもあるが、全体の勢いは鈍い。いい日本酒を多くの人に飲んでもらうにはどうすればいいのか」との切り口である。かつては冠婚葬祭=日本酒といってもいいほど飲まれていたのに、70年代をピークに出荷量は激減している。小生も昔に比べたらあまり日本酒を飲まなくなった。40年前とはほぼ就職した時だ。
 
  先日札幌に行った時、「札幌で最も古い炉ばた焼の店・ウタリ」に入った。ホッケとキンキを焼いてもらった。両方とも二人で食べてちょうど良しという大きさだった。とくにキンキの美味さは絶妙だった。この魚に合う日本酒として出されたのが「神武威岬」という銘柄だ。店のお勧めのようだった。醸造元は日本酒造とあった。小さな壷に冷でなみなみとあふれさせて注いでくれた。微妙に甘めだったのが、辛口好きの小生には残念だった。
 
20年以上も昔、取材で新潟・長岡市に行き、長尾先生という年配の医師からさまざまな郷土話を聞いた。たとえば、山本五十六が最後に出身地・長岡に来て長岡高等学校生徒に講話をしたこと、戊辰戦争でこの辺りで行われた激しい攻防戦の悲しい話、市民から「お山」の愛称で親しまれている悠久山公園とその中にある蒼柴神社のいきさつ、などである。最後に案内されたのが、朝日酒造であった。
 
 この会社の創始者が建てた瀟洒な住宅や、山田錦が植えられた田んぼに鴨が放されて雑草を食べている様子などを見せてもらった。そして、酒蔵の内部を案内してもらったのだった。先生とこの家とは特別親しい関係にあるとみた。帰りに、長尾先生が「久保田萬寿」を持たせてくれた。「久保田」がブレークする少し前の話だ。朝日酒造の創業時は久保田屋であった。後で分かって恥をかいたが、長尾先生は上杉謙信長尾景虎)の流れを汲む家系の人だった。たしかに、長尾だからね・・・!!。
 
社会人になって最初の会社は西新橋交差点に面していた。そこから徒歩5分ほどの虎ノ門寄りに「日本酒造組合」のビル、酒造会館がある。その地下に飲み処「登茂恵」(日本酒造組合 ともえ)がある。日本酒好きの人なら知っていると思うが、名物女将がいて、全国の地酒が飲める。夕方5時開店とともに周りの官庁から駆けつけた年配の常連たちですぐ席が埋まる。若い頃よく先輩に命じられて席取りに行かされた。今でも近くに行くと覗いてみたくなる店だ。