間宮林蔵、伊能忠敬、松尾芭蕉―隠密説

     先日、門前仲町に行った時、佃煮屋さんで「深川」というタウン誌をもらった。表紙はこのあたりの古地図の上に昔の永代橋や木場の風景などを乗せた瀟洒なデザインだ。今年は大正元年からちょうど100年目にあたることで、特集を組んだという。あとがきに「今年3月に行われた渋沢資料館の企画展『澁澤倉庫株式会社と渋沢栄一』でも放映されたが、倉庫の町・深川といわれた頃のイキイキとした様子が映し出されている貴重なフィルム」とある。渋沢篤二氏が撮影した大正から昭和にかけての深川の映像だそうだ。このタウン誌でも次号で渋沢栄一を特集すると予告している。わが国近代化の元祖・渋沢栄一は下町でもいまだに崇められている。
 
 このタウン誌で高野ひろし氏(路上ペンギン写真家)が連載している「道草のもと」に間宮林蔵伊能忠敬、そして松尾芭蕉の名前が出てくる。林蔵の墓所がこの辺りにあるので、業績をたたえる解説板が立つ。林蔵は伊能忠敬から測量技術を学んでいた。忠敬は50歳になってから江戸に出て勉強を始め、日本中を歩いて測量、精密な日本地図を作った。富岡八幡宮の傍に住んでいた。職業的な俳諧師となった松尾芭蕉は延宝8年(1680年)、深川に草庵を結ぶ。門人の李下から芭蕉を贈られ、芭蕉の木を一株植え、大いに茂ったので「芭蕉庵」と名付けた。高野氏は「つまり健脚の巨匠三人衆が、江東区に集結したってことですよ」と書いている。
 
 小学三年生のときに、読書感想文で「間宮林蔵」のことを書いた。樺太と大陸の間に「間宮海峡」があり、樺太が島であることを発見した。この冒険旅行が当時の少年の心に深い感動を与えた。そうしたことも含めて、間宮林蔵には愛着を感じてきた。大人になってから、冷静に考えれば伊能忠敬間宮林蔵も隠密であったという説が正しいように思う。芭蕉も忍者説が有力で、「奥の細道」紀行なども情報収集を兼ねていたとの見方に組する。移動は歩くだけという当時の交通事情の中で、彼らをそこまで徹底して突き動かしていったものは何なのか。インテリジェンス活動の基本に関わる重要問題を突きつけられているような、今日この頃だ。