渡辺淳一氏逝く

   「『化身』の部屋はそのままですか?」、ジャーナリストが女将に尋ねた。「はい、そのままですよ」との返事。二年前、日本橋小網町の鰻老舗「喜代川」での問答だ。井原水産の井原慶児社長が打ち合わせ後にお昼に誘ってくれた。夕刊紙編集者、ジャーナリスト、小生。小説「化身」の舞台にもなった二階の一間は「霧子の間」と呼ばれている。いつか夜に来て、その三畳間でふっくらした鰻を頬張りたいと思った。
 
 「君は『失楽園』をどこで読んでいるの」。インタビューが終わった後の懇談で、某大手企業の社長が聞いてきた。日本経済新聞に連載されていた頃だ。「朝、通勤電車の中で読みますが、社長は…」と切り返した。「いやあ、会社に来る車の中でだよ。部屋(社長室)で読んでて、秘書が来たら恥ずかしいからね」。何人もの経営者が「失楽園」を話題にした。その一言に、年代のかなりの違いを感じたものだ。
 
 「愛の流刑地」は入院中の病院ロビーで早朝読んだ。七時に起きてTVニュースを見た後、病院を一回り散歩する。受付・会計ロビーの新聞・週刊誌コーナーでチェックして、朝食のため病室に戻った。自分(の体)がこれからどうなるか分からない不安な時期だった。この小説「愛の流刑地」の男と女もつねに不安定の中に生きていた。静かなる絶叫、 生と死の交錯、すべてが混迷の中で日々読み続けた。