講演「新島八重の勇気ある人生」から

 土曜日午後、坂戸教会での講演会に出かけた。「新島八重の勇気ある人生」とのタイトルで、講師はかつてクリスチャン新聞編集部長、「百万人の福音」編集長を務めた守部善雅氏。1940年生まれで、慶応義塾大学卒。大柄な人物だった。参加者は60代、70代中心に70人強。守部氏の講演からいくつか紹介する。
 
   「先週も新島旧邸に行ったが、お菓子やお酒など『新島グッズ』があふれていた。昨年訪れたときは自由に見学できたが、今は書斎の見学は30人ずつに制限されている。NHKが2011年6月、大震災と原発事故被害に苦しむ福島の人々を励まそうと大河ドラマ『八重の桜』を発表した。当時、NHKは『徳川慶喜』を予定していた」
 
 「はじめはNHKに『新島八重って誰か?』との問い合わせが多かったが、今では150冊以上も八重についての本が出版される大ブームだ。八重はとにかく積極的に生きた人であった。会津は教育熱心な藩だったが男子用で、八重は女性だったので教育は受けていない。それで、良いものはなんでも自由にすべて吸収していった。兵法を学び、スペンサー銃を撃った。京都に来てからもそのように生きた。彼女が歴史を動かしたとはいえないが、譲との結婚で歴史に大きな足跡を残した」
 
 「八重は会津戦争が終わって、二つの重荷を抱えていた。『自分は生き残ってしまった』と『なじょして会津は逆賊になってしまったのか』である。それらの悔恨が新島襄との出会いの中で明らかになり、譲の聖書でかたちづくられた人柄でそれらの負い目から解放されていく。兄・山本覚馬が薦めた聖書の学びが、譲の言動で少しずつ八重に理解されていった。譲との結婚式の前日、八重は京都で初めてのクリスチャンになった」
 
 「山本覚馬は白そこひ(白内障)で、もし横浜でヘボンに会っていたら失明せずに済んだかもしれない。彼の建白書『菅見(かんけん)』は日本の未来像を具体的に提言したので、西郷隆盛などを動かした。西郷その人は漢訳聖書を読んでいて、そこからインスピレーションを受けていた。彼がよく使った『敬天愛人』はその典型である。また、西郷は晩年、その弟子たちに聖書を教えていた。このことは最近の研究で明らかになってきた。西郷と聖書の関係を最初に見抜いたのは内村鑑三だった」